純粋な好きを話そう。『くちぶえサンドイッチ』松浦弥太郎|書評

2021-01-22
小説・エッセイ
『くちぶえサンドイッチ』の写真

大学をやめてすぐの桜の季節、図書館でなにげなく見つけた随筆集の言葉は、ぼくの価値観を揺らしました。

まるで心を鷲掴みにして勢いよく揺するように、価値観がグワングワンと。すっかりこの本の虜にもなってしまったのです。

その言葉は、松浦弥太郎さん著『くちぶえサンドイッチ』のなかの、角田光代さんによる解説のワンフレーズ。

これは、ぼくと松浦弥太郎さんの出会いであり、言葉の大切さを教えられた1コマです。

 

好きなことを話すのは難しい

くちぶえサンドイッチ』は、文筆家・松浦弥太郎さんによる、日常・旅・本をテーマにした随筆集。

全編を通して、あたたかく、やわらかい木漏れ日のような空気感のある、不思議な本。

「なぜこの随筆集は、これほどまでに居心地がいいんだろう」と考えながら読みすすめていました。

すると、角田さんによる解説にて、不思議な空気感の正体を見つけました。素敵な言葉だったのであなたにもお裾分けします。

多くの人は、何かをいいと言うときに、べつのものの悪いところを言う。この赤い色がいいと説明するときに、こっちの赤だと派手だし、こっちの赤だとくすんで見える、だから私はこの赤がいいのだと説明する。好き、を説明するのは、嫌い、を説明するより難しいからだ。好きなもののことを話しているようでいて、気がつけば嫌いなものについて話していることが、私たちには往々にしてある。でも、作者はそうしない。この本にあるのは、「嫌い」をまったく付随しない純粋な「好き」だ。だから、この本のなかに否定形はまったくないといっていい。あるのはすがすがしい肯定。それはつまるところ、世界への肯定である。

引用:集英社文庫『くちぶえサンドイッチ』松浦弥太郎著 / P.328-4

 

好きなことの話をしよう

好きなもののことを話しているようでいて、気がつけば嫌いなものについて話していることが、私たちには往々にしてある。

ある。往々にしてあるな…。

悲しくも無意識に、聞かれてもいない「別のものの嫌い要素」を引き合いに出してしまう。

 

「きのこの山とたけのこの里、どっちが好き?」と聞かれたときは、「たけのこの里が食感よくて好き!」と答えればいいのに、「きのこの山はチョコレートの総量が少ないし折れてることも多くて、だからたけのこの里が好き」なんて言ってしまう(なんてめんどうくさい)。

 

「純粋に好きを話す」はいつも意識していないと、川の流れのようにスラスラと「嫌いとの比較」になるのです。

きっと、22年の人生で"好きなもののことを話しているようでいて、気がつけば嫌いなものについて話していること"が多かったんだろうなぁ。

だから角田さんの言葉に触れたとき、それはもう揺さぶられたのでしょう。

「おい!目を覚ませ!好きなことを話すんだ!なんで嫌いなことを連れてきたんだ!」って。

 

話すって、すごく難しい。

こんなに大切なことさえも、意識しないとできない。

 

自分の褌で土俵に立つ

大好きな星野源さんの対談連載『星野源 ふたりきりで話そう』にも、まったく同じことが書いてあり首を縦に振っていました。(それも対談相手がバナナマンの日村さんとあって、好きの渋滞が続いていた)

曰く、

なんだこの他人の褌で相撲を取ってる感じはって。それでだんだん、自分に素直に書くようになったら、あれよりもこれは好きですって言う必要はないと思うようになって。これが好きですだけでいいんじゃないかなって。

好きなことを話しているはずが、嫌いなものを引っ張ってきてしまう。

それはもう、他人の褌で相撲を取っている証拠だと。

なんてこった。角田さんの挙げた『くちぶえサンドイッチ』の空気感にも一致するじゃないですか。

長年本を読んできたけれど、これほど美しい文脈の一致は見たことがない。目にしたときはさすがに(喜びで)震えました。

そうか。ぼくたちはもっと、自分の褌で相撲を取るべきなんだ。

 

まとめ

角田さんはさらに付け加えます。

「嫌い」をまったく付随しない純粋な「好き」だ。(中略)この本のなかに否定形はまったくないといっていい。あるのはすがすがしい肯定。それはつまるところ、世界への肯定である。

桜咲き誇る春、新しい出会いの季節にぼくは、生涯忘れることのない大切な言葉とともに歩みはじめました。